ざっからんどの話
最終投稿から2年も経っていてびっくりした。
ここ2年間、いろいろなことがあった。
とりあえず今は落ち着いているし、じゅうぶんに幸せな生活を送れている。
内面の変化も様々あったが、今日はとりあえず別の話題を書きたいと思う。
わたしがよく通る道に「ざっからんど」というお店の佇まいがある。
佇まいだけがあるのだ。
わたしが物心ついたときからずっと閉まっていて、営業しているところはいっさい見たことがない。
可愛らしい白塗りの壁に、緑色のりぼんが描かれている。
きっと外装に合った可愛らしい雑貨を扱うお店だったのだろう。
色とりどりのスポンジや、キュートなくまやうさぎのぬいぐるみまで、脳裏に店内の様子が浮かぶ。
営業しているときに行ってみたかったなあ。
タイムマシンがあれば、過去に戻ってこのお店を訪れるだろう。
衣服との距離
私は服を選ぶことが本当に苦手だ。苦手なことは多々あれど、指折り3つに入るくらい苦手だ。
ショーウィンドウに並んでいるのを見ているぶんには色々なデザインがあって面白いと思う。でも服飾店に行っても自分自身が纏っているところはあまりイメージがわかないし、しだいに見て回るのにもくたびれて、どれも同じデザインに見えてきてしまう。
だからといって一回しか着ないような服を買ってしまって後悔したいわけでもなく、結局どれも買わずに帰るのが常だ。
このあいだも季節の変わり目だからといくつかの服飾店を見て回ったが、やはり同様の時間を過ごしてしまった。
どうしても新しい服の補給が必要なときは、仕事でも使えそうな無難なデザインを選ぶ。というより、仕事で着られるような服しか買っていないかもしれない。
そんなふうに冒険をしないおかげで、私のクローゼットは紺と白づくし、葬式のごときカラーリングだ。
私はもともと、服飾品というものに意識がいかないというか、こだわりがなかった。
大学生になるまでは、ボトムはジーンズしか持っていなかったくらいだ。
というよりもむしろ、条件がありすぎるのかもしれない。体質的な要因なのか、生地がざらついているものやレースフリルがついた服などは肌がムズムズしてきて長いあいだ着ているにはつらい。
そんなわけもあってか、服について楽しむことや考えることは少なく、長らく服に対しての距離感を掴みかねていた。
世に数多あるファッションブランドについても同様だった。
けれど以前バスに乗っているときに、全身ブランドもので固めている女性を見かけたことがあった。居住まいが正しく立派そうな人だった。
そのとき、服を含めて、身につけるものの存在意義がわかったような気がした。きっとその人は自分自身で衣服を選び、購入し、身に纏っているのだろう。
よく考えたらあたりまえのことだが、服飾についてなんにも考えたことのない私にはなぜだか示唆めいて感じられた。ブランドものを買うことは、纏うことは、自分自身の力や存在の表現になり得るのだろう。
これは私の勝手な予想から組みあげたストーリーかもしれないが、ひとつの価値観の一端が見えたような気がした。
そんな考えを経験したはいいものの、私の服選び下手は変わらなかった。私にとって衣服は、娯楽にするには手に余る存在のようだ。
いまも服を選ぶことができず、オールシーズンユニクロへ頼りきっている。
ユニクロはそのシンプルなデザイン性によって、私のような根っからのファッション音痴にまで救いの手を差し伸べてくれる。
(もちろんどんな服にもそれぞれの価値がある。作っている人や買う人を否定しているわけではないので、あしからず)
ここのところ気温の上下が激しく、服装で迷うことが多かったので、こんな話題を書こうと思った。
お初記事
はじめまして、Kといいます。
なぜこのブログを始めようかと思ったかというと、理由はふたつある。
ひとつは、自分の日常において何があったのか手軽に記録しておける場所が欲しかったこと。
物心ついてからずっと二次元オタク(ゲームやら同人やら)をやってきたが、最近ではふつうのことを考える機会の方が多く、またそれが楽しくもなってきた。
けれどせっかく考えたり体験したりしても、私が忘れっぽいせいか、とことん記憶に残らない。
また、誰かに話すことは私の性に合わないし、むしろ苦痛だ。
これは考えすぎなのだろうが、私なんぞの話で相手の貴重な時間を奪いたくないし、うっかり無作法な話題選びで相手を傷つけたくもないのだ。(他人と関わること自体は嫌いではないのだが、私の言動で相手を不快にさせるのは心から忍びない)
こんな思考回路だからか、どうしても当たり障りない話ばかりしてしまう節がある。
個人ブログにおける文字列でなら、あらゆるしがらみから自由でいられると思ったし、実際とても息がしやすい場所だ。
忖度なく思考し記録するためというのが、ひとつめの理由だ。
なによりもまず私は、私がどんな人間なのだかまだわかりきっていない。
どんなときになにを感じているのか、本当にわからないのだ。
過ごしてきた環境からくるものなのかもしれないし、もともと感情のない性格なのかもしれない。それを、文字を通してわかりたいと思う。
白紙(実際は白い画面だが)を前にしたときだけ、本当の自分が見えるのではないかという期待がある。
ふたつめに、アウトプットを訓練する必要に迫られているということがある。
仕事においてもプライベートにおいても、適切なアウトプット力が足りないと感じることが多くなってきた。
日々を円滑に進めるにあたって、話すことなどが重要なのは、周りを見ていてよくわかる。
でも私にはいつもの癖として、そして大きな欠陥として、説明を省くという点がある。なにがどうなってそんな習性が身についたのかはもう忘れてしまった。
ただとにかく、思考すること自体は大がつくほど好きなのに、それを伝えることが苦手なのだ。具体的に言えば、人に聞かせるための説明がとても苦手だ。
試しにイチからしっかり説明しようと試してみると、なんだか面倒そうなリアクションが返ってくる。(長い説明は面倒なのは私も同じだ。でもすべて話さないと伝わらないことはどうしたらいいのだろうか? 私はこの最適解を知らない)
かと言ってシンプルに答えだけを渡すと、伝わりきらなかったりこいつやる気あるのか?というふうに誤解されがちだ。(気にしすぎなのかもしれないが、たしかに私の性分だ)
ここまで書いてきた通り、私は話す能力がまったくない人間だ。
だからこそ、話すことよりは少しなら出来る書くことを通して、ちょうどよい伝えかたというものについてなにかしら掴めたらいいと思う。
生を受けてもう二十数年経ち、長らく伝えることを本気でやらずにきてしまったが、一応まだ練習すれば身につくと信じている。
そしてそのうち、話すことというものの楽しさを知り、好きになってみたい。話すことを楽しいと思ってみたい。
ひとつめの理由で、話すよりも書くことのほうに自由があるなどと言っている私には、もしかしたら無理な願いなのかもしれないが。
ふたつの理由をざっくり総合すると、試行錯誤の痕跡を残しつつ新しい表現方法が手に入れられればいいなと思っている次第だ。
誰が読んでいるのかもいないのかもしれないが、せっかくネットに放流しているので、なにかのきっかけでここに来てくれた人は良かったらしばしお付き合い頂けると嬉しいです。
内容としては個人的な日記になりそうで、なんの有用性もありません。ただ私の思考の跡が残っているだけになります。
各種フィクション作品が好きなので、文体が台詞めいていたり大仰な表現やら何やらがあるかもしれませんがスルーしてやってください。
なぜそんな文体なのかというと、触れてきたものが小説などばかりなので、それらのテンションしか知らず、なおかつしっくり馴染むからです。
そのうちブログにふさわしい文体になっていくかもしれませんし、ならないかもしれません。
ここでは技巧的なことは置いておいて、単純に、もっと自由になれるよう書いていければと思っています。
それでは今回はこの辺で。
気が向いたらまた書きます。できれば早めに書きたいね。