ねんど板の上

こねたり刻み込んだりします

衣服との距離

私は服を選ぶことが本当に苦手だ。苦手なことは多々あれど、指折り3つに入るくらい苦手だ。

ショーウィンドウに並んでいるのを見ているぶんには色々なデザインがあって面白いと思う。でも服飾店に行っても自分自身が纏っているところはあまりイメージがわかないし、しだいに見て回るのにもくたびれて、どれも同じデザインに見えてきてしまう。

だからといって一回しか着ないような服を買ってしまって後悔したいわけでもなく、結局どれも買わずに帰るのが常だ。

このあいだも季節の変わり目だからといくつかの服飾店を見て回ったが、やはり同様の時間を過ごしてしまった。

どうしても新しい服の補給が必要なときは、仕事でも使えそうな無難なデザインを選ぶ。というより、仕事で着られるような服しか買っていないかもしれない。

そんなふうに冒険をしないおかげで、私のクローゼットは紺と白づくし、葬式のごときカラーリングだ。

 

私はもともと、服飾品というものに意識がいかないというか、こだわりがなかった。

大学生になるまでは、ボトムはジーンズしか持っていなかったくらいだ。

というよりもむしろ、条件がありすぎるのかもしれない。体質的な要因なのか、生地がざらついているものやレースフリルがついた服などは肌がムズムズしてきて長いあいだ着ているにはつらい。

そんなわけもあってか、服について楽しむことや考えることは少なく、長らく服に対しての距離感を掴みかねていた。

世に数多あるファッションブランドについても同様だった。

けれど以前バスに乗っているときに、全身ブランドもので固めている女性を見かけたことがあった。居住まいが正しく立派そうな人だった。

そのとき、服を含めて、身につけるものの存在意義がわかったような気がした。きっとその人は自分自身で衣服を選び、購入し、身に纏っているのだろう。

よく考えたらあたりまえのことだが、服飾についてなんにも考えたことのない私にはなぜだか示唆めいて感じられた。ブランドものを買うことは、纏うことは、自分自身の力や存在の表現になり得るのだろう。

これは私の勝手な予想から組みあげたストーリーかもしれないが、ひとつの価値観の一端が見えたような気がした。

 

そんな考えを経験したはいいものの、私の服選び下手は変わらなかった。私にとって衣服は、娯楽にするには手に余る存在のようだ。

いまも服を選ぶことができず、オールシーズンユニクロへ頼りきっている。

ユニクロはそのシンプルなデザイン性によって、私のような根っからのファッション音痴にまで救いの手を差し伸べてくれる。

(もちろんどんな服にもそれぞれの価値がある。作っている人や買う人を否定しているわけではないので、あしからず)

 

ここのところ気温の上下が激しく、服装で迷うことが多かったので、こんな話題を書こうと思った。